大観のことば


 

様々な方法で自己を表現する人は、いつも自分自身を顧みなければならないと思います。

 

富士の名画というものは、昔からあまりない。それは、形ばかり写すからだ。富士を描くということは、富士に写る自分の心を描くということだ。心とは、畢竟、人格にほかならぬ。それはまた、気品であり、気迫である。

富士を描くということは、つまり、己を描くということである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには、理想をもって描かなければならぬ。私の富士も、けっして名画とは思わぬが、しかし、描く限り、全身全霊を打ち込んで描いている。

富士の美しさは、季節も時間も選ばぬ。春夏秋冬、朝晩、富士は、その時々で姿を変えるが、いついかなる時でも、美しい。それは、無窮の姿だからだ。私の芸術も、その、無窮を追う。

-横山大観「私の富士観」 朝日新聞・昭和29年5月6日より-

 

 

 

 

祈りの声


 
 

昔のことになりますが、3年ほどかけて小さなお堂の中に絵を描く仕事をしたことがあります。扉は閉めていましたので夏は暑く、冬は防火のため暖房器具が使えずにとても寒かったことを覚えています。

中で仕事をしていると、足音や賽銭を投げ入れる音でお参りに来る人がわかるのですが、中には願い事や祈りを声に出す人もいます。

 

祈る人の声は、願い事や御礼、感謝の気持ちなどさまざまですが、みな真剣です。そのような祈りの声に助けられて、無事に仕事を完成することができました。

 

 

 

 

職人という生き方

 

 

職人という名から連想するのは「プロフェッショナル」という言葉です。仕事には自信と誇りを持ちながら自分を表に出さず、分をわきまえていて謙虚な姿勢をいつもたたえている人。

後世に残るような大きな仕事をする望みを持つこともあるかもしれませんが、目の前の仕事を誠実に取り組むという生き方。これは職人に限らずどのような職業の人にもあてはまりそうですね。

 

 

本当に素晴らしい人は、概して野にあって隠れ、学び、夢み、伝統をふまえ、しかも自分でないとできないこと、また自分ができるわずかなことを、本当の高く深い美しさを真剣に追求している人たちだと思っています。

– 「一茎有情」志村ふくみ・宇佐見英治共著より –

 

 

 

 

空と海

 

時には空を見上げ、遠くをみはるかすのもよいですね。
視野を広く、視点を高く。

 

 

 

身体に聴く


 

僧院などでは日々行う物事の区切りに太鼓や鐘を打ち鳴らすことが一般的です。それにはいくつかの理由があって、遠くからも聞こえることや、言葉による伝令よりも音の方が身体が素直に反応するからなのだそうです。言葉を聞くと思考や感情がはたらき、反応が鈍ることがあるからでしょうか。

習い事をするときには同じ動作を繰り返し練習して、身体に浸み込むように覚えさせることをしますが、頭を使わずに身体で物事を理解することには何か秘密がありそうです。

武道などをはじめ様々な芸道の中で、作法などを一度身体が覚えるとそれがそのまま自然の理にかなっていることが分かります。身体にはこの法を学ぶ智慧が備わっているようです。

 

 

 

 

 

 

心を洗う


 

洗濯物をたたむほどのことに人生はあるか、と詩人山尾三省は問いました。生きるために必要な、日常のどのような小さなことも人生をつくりあげています。毎日の暮らしのなかの一つひとつのことを丁寧に行なうことは、何よりも大切なことであると思います。

掃除、洗濯、そして心を見つめ、心を洗う。どんなに小さなことにも心をこめる。その積み重ねがその人の人生を作っていくのではないでしょうか。

詩人は、自分の人生が一枚一枚たたまれていくと詩(うた)いました。

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