新しい年に

 

 

 

家族の健康と幸せを祈る、国家の安寧を祈る、世界の平和を祈る。
多くの人びとが日々、より良い世界を願っています。

その願いは目には見えないかもしれませんが、この惑星を優しく包んでいるのではないかと思っています。

祈りとは、人間が表現しうる最高・最上の形ではないでしょうか。何事にもそのような心を忘れないように過ごしていきたいと思います。

 

創造的エネルギーに触れながら自然の中を一歩一歩歩く時、
全身が深い感謝の気持ちに包まれる。

その感謝が結晶化したものが、祈り。

本当の祈りは、個人の願望でも要求を訴えるものでもなく、
ただ感謝の中で輝く宝石のようなもの。

-森井 啓二 「祈りの本質」-

 

 

 

生命の言葉

 

 

普段何気なく使っている言葉ですが、言葉は思考や感情と深く結びついているので、たとえば「ありがとう」と声に出して言うと、それを聞く人も話す本人もありがたいという感謝の気持ちが胸に広がっていきます。

ですから、人を傷つけるような言葉を話せば、同時に自分も傷ついてしまうのです。そして一度放たれた言葉は取り消すことができないので、言葉の扱いには本当に気をつけなければならないと思います。

わが国には言霊(ことだま)といって、言葉には霊力が宿っていると考えられてきました。

 

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
-ヨハネによる福音書第1章1節-

 

 

 

 

 

物心一如

 

 

 

感性の豊かな人の多くはすべてのものに命があり、心があると思っています。それは経験からそのように確信をしているのです。動植物はもちろんのこと、石や岩、鉱物などにも固有のエネルギーが備わっていることを感じています。

機械や道具類も丁寧に手入れをして大切に扱っていると、よい仕事をしてくれることも経験からわかります。それでは物にも意識があるのでしょうか。それについては次のような話を聞いたことがあります。

 

砂漠のなかを車で移動していて燃料が尽きてしまい、行き交う車もない場所で困り果てていたとき、運転手は車に向かって「お願いだから次の街まで走ってください」と声をかけたところ、燃料が空にもかかわらず車のエンジンがかかり、街まで動いたという話です。

 

昨今、AI(人工知脳)には意識があるのかどうかという話題に接し、そのようなことを思い出しました。

 

 

 

「心」と「物」と二つに分けてはならない。
-村上華岳-

 

 

 

真実を語る


 

嘘が良くないことは子供でも分かることですが、その本当の理由を知る人は多くありません。

嘘をつくことは自分と相手を同時に欺くことであり、思いと話す言葉と行いが真っ直ぐにつながらないので、思うことが実現できなかったり、話す言葉が相手の心まで届かなかったりするからです。そしてそのような状態にあると物事の判断を誤ったり、逆に人に騙されたりしてしまいます。

生きていく上でいつも真実を語ることは簡単なことではありません。時には命を落とすことがあるかもしれません。それでもその勇気を持ち続けたいと思っています。何故なら、人の真価は実績や名声ではなく、誠実さや謙虚さにあると思うからです。

Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you

– William Martin Joel –

 

 

 

 

思いはとどく


 

私たちは戦争や大きな災害で犠牲になった人々の慰霊のために、特定の日時に黙祷を捧げています。そのような祈りの力は目には見えませんが、世界の隅々まで届いてはたらいていることを信じています。

思いの持つ力について、19世紀のインドに生きた聖ラーマクリシュナは次のような言葉を残しています。

 

思想の持つ力を理解しているものは数少ない。もしある人が洞穴に入って閉じこもり、そして真に偉大な思想を考えだした後、そこで死んだとする。しかし、その思想は洞穴の壁から滲み出し、空間を振動し、遂には全人類に充満するだろう。思想の力とはこういうものだ。

– 「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」 より-

 

 

 

真実をさがす


 

昔から農業に携わる人は、田畑を起こし種をまく時節を判断するために、山川草木、自然の姿にあらわれる徴(しるし)を目安にしてきました。祖先から言い伝えられてきたことが、自身の体験によって確かなものであることを知っているからです。

新しいことを学んだり発見したりしようとする場合はどうなのでしょうか。その昔、天動説が定説であった頃、動いているのは地球のほうであると口にすることは大変な勇気と覚悟が必要だった時代がありました。みながそう言うからといって、それが真実であるとは限らないのです。

真実を見出すためには、透明な心と冷静な理性、そして最終的には直観が大切なのではないかと思います。

 

昨今のニュース・メディアの流す報道に接して思うこと。

祈り


 

正月には多くの人が初詣に出かけ、掌を合わせて願い事をします。そのような祈りは届くのでしょうか。そして叶えられるのでしょうか。それについて、インドのある聖者はこのように語りました。

「対等の者に物乞いをすれば、君は立場を下げ、相手が立場を上げる。しかし神に願う時、君は神に近づくのだ。神に願いなさい。それは物乞いとは違うのだ」

 

私たちが神(仏)に心を向けるとき、たとえ願い事であっても、自分がその神聖な存在に近づくように感じます。頭(こうべ)を垂れ、身を低くして謙虚な心になって願うならば、その思いはきっと届いて叶えられるように思います。

 

 

 

 

手のひらの宇宙

 

 

色づいた落ち葉の美しさに驚いて、こんなに小さなものにも宇宙と同じような美の秘密があるのだろうかと思います。

工場で働く人が、旋盤の上に宇宙があるということを語っていました。同じように、碁をする人は碁盤の上に、画家は小さなキャンバスの中に宇宙があるのだと言います。

万物が相似形で現れていることをフラクタルというのだそうですが、それゆえに無限大の宇宙を身近なところで発見できるのかもしれません。

 

 

To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour.

– William Blake: Auguries of Innocence –

 

一粒の砂の中に世界を
一輪の野の花に天国を見るには
きみの手のひらに無限を
ひとときのうちに永遠をつかめ

ウィリアム・ブレイク 「無心のまえぶれ」

 

 

メッセージ


 
 

私たちは溢れるようなたくさんの情報の中で生きていますが、本当に大切な情報を見つけることはなかなか難しいものです。

例えば、別々の人から同じ本を勧められること。ある映画のなかで語られた同じ言葉をその翌日に新聞の中に見つけること。

このようなシンクロニシティ(共時性)はとても解りやすいのですが、大切なものは周りの、あらゆる物事に隠れていると思います。賢者は子供からも学ぶと言われますが、大切なものを見出すための心得とはひとつに謙虚な姿勢にあるように思います。

そうすると、砂粒のなかに輝く宝石を見つけることができます。

 

 

ほほえみの色彩


 

笑顔に出会うと、明かりが灯るように心が暖かくなります。ほほえみを色で表わすとどのような色になるのでしょうか。淡いクリーム色か、バニラのような温かな色彩かもしれません。

感情や音楽などはそれぞれの色彩を持っているそうです。色には神秘的な力があるようです。

 

 

すべて幸なり

 

 

 

いつもこのように思うことのできる幸せ。

100年前に発刊された詩集から。

 

 

 

 

 

分かち合い


 

 

Happiness only real when shared

– Christopher Johnson McCandless –

 

 

 

家族や親しい人たちとの間で普通にされているように、私たちみなが生きるための糧を分かち合うことができたなら、どんなに素晴らしいことでしょう。

分かち合うということは、持ち分が減るのではなく、逆によりゆたかになることなのです。

 

 

1992年アラスカの荒野でひとり亡くなったクリス・マッカンドレスの書き残した言葉。

 

 

至高の美


 

道の道(い)う可(べ)きは、常の道に非ず。

– 老子 第1章 –

 

 

宇宙はひとつのものであり、それを言葉によって表わそうとすると、言葉で表わされたものとそれ以外のものに分けられてしまいます。老子はまた次の第2章で、美という観念から醜というものが生じてくると述べています。それでは美とは何でしょうか。美しさの評価には、時代や場所によって移り変わる相対的な側面がありますが、究極的な、純粋な美というものはそのような評価とは関係なく存在するのではないかと思います。

 

*

まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというものでもなく、(中略)またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというものでもない。

– プラトン「饗宴」 久保勉 訳 より-

 

 

 

そのような究極の美は、おそらく真実の体験と同じく自らの共感する力によって直感的に体験されるものではないでしょうか。そしてその美とは、あらゆる要素を含みながらただ純粋であり、いかなる情緒や理念をも超えて静かに偏在するものではないかと思います。

 

 

 

*

愛と美を分かつことはできない。
愛がなければ何の美もなく、両者は不可分に結び合っている。

– J・クリシュナムルティ –

 

 

祈りの詩集

 

愛する人、大切な国、美しい星々を想い、語る。繰り返される言葉は純化されて祈りに変わっていくのでしょうか。

水を沸騰させて蒸留し、それをまた熱して蒸留することを重ねていく、その際限のない繰り返しのなかで、人の精神は変容していくのです、とある錬金術師は語りました。

 

竹友藻風(1891 – 1954)は神学、英文学を学び、1913年(大正2年)、詩集「祈禱」を刊行しました。詩集には純化された言葉が美しく綴られています。

 

 

 

*
眠れる人のうへに、
靜かなる祈禱の雨はふりそそぐ。
わが部屋に、心のうへに、
むせびつつ水はしたたる…
うす⾭の空のかなたには、
月光の海の底に、
漾へる森、なびく樹立、
靜寂の國…
いかなれば外はしづかに晴れ渡り、
いかなればわが部屋にのみ雨はふるらむ。
– 竹友藻風「眠れる人のうへに」-

 

 

よあけ

 

空が少しずつ明るくなりはじめ、新しい一日の生まれる時。静かな、澄んだ空気のなかに心を合わせると、魂が空全体に拡がっていくようです。

今日一日の無事と世界の平和を祈ります。

 

やさしさ
謙遜な心
すなおな信仰
それは浅くても尊い

– 八木重吉 –

 

 

平和な心で

 

この頃、大きな街を歩いて気になることは、公園などに置かれているベンチに仕切りや細工がされていて、そこで横になったり長い時間座ったりしにくくなっているのではないかということです。

先日、広島を訪ねました。街は緑がゆたかで休むことのできる椅子やベンチがいくつも設置されていましたが、そのような細工がされていないのに気づき、それが自然であたりまえのことであるのに、その優しさに心が温まりました。

 

平和な社会をつくるというのは、一人ひとりの中に、人を思いやるあたたかな心を持つことが大切なのではないかと改めて思うのです。