新しい年に

 

 

 

家族の健康と幸せを祈る、国家の安寧を祈る、世界の平和を祈る。
多くの人びとが日々、より良い世界を願っています。

その願いは目には見えないかもしれませんが、この惑星を優しく包んでいるのではないかと思っています。

祈りとは、人間が表現しうる最高・最上の形ではないでしょうか。何事にもそのような心を忘れないように過ごしていきたいと思います。

 

創造的エネルギーに触れながら自然の中を一歩一歩歩く時、
全身が深い感謝の気持ちに包まれる。

その感謝が結晶化したものが、祈り。

本当の祈りは、個人の願望でも要求を訴えるものでもなく、
ただ感謝の中で輝く宝石のようなもの。

-森井 啓二 「祈りの本質」-

 

 

 

自然とともに

 

 

 

この頃は郊外でも都市部と同じような人工的な環境となって、自然を身近に感じることが難しくなってきました。人は自然の一部であるということが忘れられてしまいそうです。

大地を耕す人、海や山からの恵みを受ける人、厳しい環境のなかに身をおいて生きる人、自然を畏れ、自分の弱さをよく知る人びとに共通する資質はとても謙虚な姿勢です。そのような人々の生きた縄文時代は、争いのない平和な社会が一万年も続いたといわれています。

平和な世界は、一人ひとりの心から、自然とともに生きる姿勢から生まれるのではないかと思います。

 

 

 

希望という灯

 

 

 

意のままに姿を変えて人々の前に現れて救済をするといわれる観世音菩薩。そのような人物と実際に出逢い、助けられたり、慰めや勇気を与えられたりした人々の話を集めています。

何度も繰り返して読んで、その内容を細かなところまで覚えているのですが、その物語を読むたびに新たに感動するのはどうしてなのかを考えました。

おそらく、私たちがいつも誰かに見守られていて、本当に困ったときには援助の手が差しのべられる、という希望をもつことができるからなのかもしれません。

 

 

 

比叡山

 

 

雪の山中をほとんど裸に近い格好で飛ぶように移動する行者の姿が、ヒマラヤなどをトレッキングする人たちに目撃されることがあります。彼は決して空を飛んだり水の上を歩いたりするために修行をしているのではありません。修行者は、それぞれの役割をもって行をされているのだそうですが、その恩恵によりこの世界の平和やエネルギーの秩序が保たれているともいいます。

呪法を自在に扱ったという役小角(えんのおづぬ)など、わが国にも山の中で暮らし、行に生きた人々が多数いたことは想像することができます。

都からほど近い比叡の山もそのような場所であったかもしれません。伽藍が整えられ、参拝の人や車が出入りする寺領にも連綿と続く行のための場所が点在します。そうした行は、国家の鎮護や安寧のためになされると聞きます。行場でもある常行堂と法華堂、そして宗祖最澄の廟のある浄土院は、比叡山の中でも特にその場所だけが別次元の清浄な空気をもった聖域のように感じられます。

 

 

 

一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり。
–  最澄「山家学生式(さんげがくしょうしき)」-

 

 

 

緑かがやく

 

 

 

緑の美しい季節になりました。春に生まれた淡い色の若葉が成長し、山々は燃えるような緑に覆われています。

この色彩には人の心身を癒す力が備わっているのでしょうか。身体のなかを風が通り抜けて爽やかな気持になります。

太陽と水と風と樹々に感謝。

 

悲しめるもののために
みどりかがやく
くるしみ生きむとするもののために
ああ みどりは輝く
-室生犀星「五月」-

 

 

 

これから

 

 

 

大きな夢を生涯追い求めて生きることのできる人は幸いです。一方で、足るを知り身のまわりのわずかなものに幸せを見いだすことができる生き方も素晴らしく見えます。

人生をどのように収束させるのか、残された時間をどのように使うのか、心を鎮めて考える日々です。自分を忘れて何かを残すことができれば、それが理想的なのですが。

 

 

 

欲なければ一切足り
求むる有れば萬事窮す
-良寛-

 

 

 

 

物心一如

 

 

 

感性の豊かな人の多くはすべてのものに命があり、心があると思っています。それは経験からそのように確信をしているのです。動植物はもちろんのこと、石や岩、鉱物などにも固有のエネルギーが備わっていることを感じています。

機械や道具類も丁寧に手入れをして大切に扱っていると、よい仕事をしてくれることも経験からわかります。それでは物にも意識があるのでしょうか。それについては次のような話を聞いたことがあります。

 

砂漠のなかを車で移動していて燃料が尽きてしまい、行き交う車もない場所で困り果てていたとき、運転手は車に向かって「お願いだから次の街まで走ってください」と声をかけたところ、燃料が空にもかかわらず車のエンジンがかかり、街まで動いたという話です。

 

昨今、AI(人工知脳)には意識があるのかどうかという話題に接し、そのようなことを思い出しました。

 

 

 

「心」と「物」と二つに分けてはならない。
-村上華岳-

 

 

 

本と人と

 

 

 

この頃は音楽や書物は電子データで聴いたり読んだりすることが多くなりました。ひと昔前は、音楽はレコード盤を回して針を落とし、溝に付いた傷の雑音とともに聴いたものです。

書物も、本棚に並んだ背表紙を眺め、本を取り出して頁を開いて文字を読みました。手に取ったときの重さや紙の硬さ、柔らかさ、匂いまでがその本の一部分になっていて、本を読むということは、そのすべてを味わうことだったように思います。

もう少し身体全体の感覚を使って、多少の不便さが残っても人生を豊かにしてくれるものを大切にしてもよいのではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

冬雪さえて


 

 

仕事場にしている民家は丹後地方の標高の高い谷筋にあり、冬になると平地よりも雪がたくさん積もります。10年に一度くらいは大雪になって家のまわりは雪の山に覆われてしまいます。

ここに移住してきた頃はまだ若かったので、風呂や暖房には薪を使い、トイレの肥は畑に撒き、その畑もすべて手作業で耕していました。
今では風呂も暖房も灯油になり楽になりましたが、冬の除雪作業には苦労しています。

それでも、雪の山里はとても静かでなかなかよいものです。

 

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり(道元)

 

 

 

心で

 

 

 

欧州に住むクラシック音楽の世界に詳しい方の話によると、本当に素晴らしい演奏をする音楽家は、有名な音楽家にも付かず、コンクールなどの賞にも縁のない、無名な人が多いのだそうです。私たちが素晴らしいと思っている演奏家は、実はそのように思い込まされているのです。

おそらく、もっとも高い境地を実現した人々とは、伝記に残っている偉い僧侶や本をたくさん残した大学者ではなく、一人で山へ籠って、誰にも知られることなく生きた無名の人びとなのでしょう。
世の中の風評に惑わされることなく、本当のものを見定める力量をもつことはとても大切である、というお話です。

ものごとは心で見なくてはよく見えない。
ほんとうにたいせつなことは、目に見えない。

-サン=テグジュペリ『星の王子さま』-

 

 

 

日々

 

 

 

世界人類が平和でありますように

闇のなかに光がとどきますように

すべての人の心に安らぎがありますように

 

 

 

 

釈迦苦行像

 

 

冬になると2メートルを超える雪の積もる山の里にその方の住まいがありました。白い外壁に大きく描かれた虹の絵が印象に残っています。

インドの地で修行の道に入り、その後は生涯のテーマとしてお釈迦様の苦行される像を彫り続けてこられました。

大きなお仕事を終えられたのでしょうか、長い旅路に出られたことを聞きました。ここに改めてその軌跡を讃え、敬愛の意を捧げたいと思います。

 

 

 

 

涅槃像


 

丹後半島の山合いの集落に松源寺という小さな禅寺があります。昭和の初めに、この寺のすぐ向かいで火事があり、たくさんの火の粉が寺に降りかかりました。

そのとき寺を延焼から守ったのが大きく枝を広げた楠の古木でした。火の粉をたくさん浴びて焼け焦げたその楠は、後になって伐採されましたが、この楠を使い、地元の彫刻家に頼んで釈迦の涅槃像が造られました。いくつかのご縁により、その像の彩色をさせていただきました。

像の胎内には「世界平和」「自燈明・法燈明」の願文が納められています。

 

 

 

 

 

 

薬草に親しむ

 

 

生命力の強い草木には薬効があることは昔から知られていますが、家のまわりにはそのような植物が結構あるので、薬草茶を作ってみようと思います。

ドクダミ、スギナ、枇杷(葉や実の種)、松葉などですが、あのセイタカアワダチソウの葉も利用できることを最近知りました。

まずは、松葉、スギナの葉を摘んで乾かし、粉にしてお茶にしたり塩を混ぜて振りかけにしてみようと思います。身体の免疫力が高まるそうです。

 

 

 

 

小さな宇宙

 

 

地球に海や陸や河川があり、そこに無数の動植物が生息しているのと同じように、人体にも骨や肉があり、血液が循環し、無数の微生物が生息しています。地球も人体もそれぞれが小さな宇宙を構成していて、全体のバランスが保たれているということです。

人に宿っている菌のなかには、身体に有害な物質を食べて除去するはたらきのあるものもいて、乳酸菌には放射性物質を取り除いてくれるものもあるそうです。

全体のバランスを保つことが大切です。除菌というのにも気をつけなければいけませんね。

 

 

 

 

さくら

 

 

桜の花には何か不思議な力が宿っているようです。花の季節になると何となく落ち着かなくなるのはその力がはたらいているからでしょうか。人びとが花見に出かけたり、敷物を敷いて宴をひらく気持がよくわかります。

西行が京の西に庵をかまえていたころ、春になると大勢の人が花見に訪ねてくるので嘆いていると、老桜の精があらわれて、「花はただ咲くだけのものです。花には咎はありませんよ」と諭したそうです。

 

 

 

 

高野御室


 

皇室にゆかりのある高野御室と呼ばれる寺を訪ねました。高野山の中でも最も北に位置していて、境内の静けさや清らかさが印象に残りました。快慶晩年の作といわれる阿弥陀三尊像が安置されています。

住職の話によると、弘法大師空海は弥勒菩薩が降臨するまでの間、衆生の救済の誓願をたて、今でも奥の院に坐しておられるのだそうです。その話を聞き、空海と弥勒との深いつながりを知ることができました。

 


虚空尽き、衆生尽き、
涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。
『性霊集補闕鈔』 巻第八 「高野山万燈会願文」

 

 

 

 

真実を語る


 

嘘が良くないことは子供でも分かることですが、その本当の理由を知る人は多くありません。

嘘をつくことは自分と相手を同時に欺くことであり、思いと話す言葉と行いが真っ直ぐにつながらないので、思うことが実現できなかったり、話す言葉が相手の心まで届かなかったりするからです。そしてそのような状態にあると物事の判断を誤ったり、逆に人に騙されたりしてしまいます。

生きていく上でいつも真実を語ることは簡単なことではありません。時には命を落とすことがあるかもしれません。それでもその勇気を持ち続けたいと思っています。何故なら、人の真価は実績や名声ではなく、誠実さや謙虚さにあると思うからです。

Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you

– William Martin Joel –

 

 

 

 

思いはとどく


 

私たちは戦争や大きな災害で犠牲になった人々の慰霊のために、特定の日時に黙祷を捧げています。そのような祈りの力は目には見えませんが、世界の隅々まで届いてはたらいていることを信じています。

思いの持つ力について、19世紀のインドに生きた聖ラーマクリシュナは次のような言葉を残しています。

 

思想の持つ力を理解しているものは数少ない。もしある人が洞穴に入って閉じこもり、そして真に偉大な思想を考えだした後、そこで死んだとする。しかし、その思想は洞穴の壁から滲み出し、空間を振動し、遂には全人類に充満するだろう。思想の力とはこういうものだ。

– 「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」 より-

 

 

 

力をあわせて


 

空気のように当たり前にあったものがなくなったときに、その存在の大切さがわかるように、この一年の間に私たちは多くの大切な物事に気づかされました。自由に地球上を行き来できた日々が夢のようです。

私たちは今、等しく一つの試練に向かい合っています。みなが地球という家に住む一つの家族、兄弟姉妹として力を合わせてこの難題を乗り越えていくことができるように祈ります。

 

 

 

 

真実をさがす


 

昔から農業に携わる人は、田畑を起こし種をまく時節を判断するために、山川草木、自然の姿にあらわれる徴(しるし)を目安にしてきました。祖先から言い伝えられてきたことが、自身の体験によって確かなものであることを知っているからです。

新しいことを学んだり発見したりしようとする場合はどうなのでしょうか。その昔、天動説が定説であった頃、動いているのは地球のほうであると口にすることは大変な勇気と覚悟が必要だった時代がありました。みながそう言うからといって、それが真実であるとは限らないのです。

真実を見出すためには、透明な心と冷静な理性、そして最終的には直観が大切なのではないかと思います。

 

昨今のニュース・メディアの流す報道に接して思うこと。

空と海

 

時には空を見上げ、遠くをみはるかすのもよいですね。
視野を広く、視点を高く。

 

 

 

身体に聴く


 

僧院などでは日々行う物事の区切りに太鼓や鐘を打ち鳴らすことが一般的です。それにはいくつかの理由があって、遠くからも聞こえることや、言葉による伝令よりも音の方が身体が素直に反応するからなのだそうです。言葉を聞くと思考や感情がはたらき、反応が鈍ることがあるからでしょうか。

習い事をするときには同じ動作を繰り返し練習して、身体に浸み込むように覚えさせることをしますが、頭を使わずに身体で物事を理解することには何か秘密がありそうです。

武道などをはじめ様々な芸道の中で、作法などを一度身体が覚えるとそれがそのまま自然の理にかなっていることが分かります。身体にはこの法を学ぶ智慧が備わっているようです。

 

 

 

 

 

 

心を洗う


 

洗濯物をたたむほどのことに人生はあるか、と詩人山尾三省は問いました。生きるために必要な、日常のどのような小さなことも人生をつくりあげています。毎日の暮らしのなかの一つひとつのことを丁寧に行なうことは、何よりも大切なことであると思います。

掃除、洗濯、そして心を見つめ、心を洗う。どんなに小さなことにも心をこめる。その積み重ねがその人の人生を作っていくのではないでしょうか。

詩人は、自分の人生が一枚一枚たたまれていくと詩(うた)いました。

照顧脚下


 

日々加速する時間の流れ、情報の洪水。自然環境の汚染。気候の変動。このまま進んでは危ないと感じている人は多いのではないでしょうか。

耳を澄ませて地球の声をよく聴き、立ち止まって自分の足元を確かめる必要があるのではないかと思うこの頃です。

 

 

 

 

前へ


 

草木が一斉に芽吹く春は、卒業、進学など新しい船出をするのに相応しい季節です。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」といわれるように、誰もが人生という旅を続けているのではないかと思います。

 

旅をするすべての人にエールを送ります。不条理な出来事に出遭い、行く手を塞がれているように思うことがあっても、その壁を乗り越えて前に進んでいくことができるように、応援したいと思います。

 

 

 

 

 

 

その時


 

雪のなかで人知れず花を開く。自然は、誰に見られようと見られまいとその時期になれば花開き、そして黙って去っていく…

自然は偉大な教師でもあります。そのような姿に接すると、ただその時の仕事に集中し、一つになって生きるという大切さを教えてくれているように思います。

 

 

 

 

祈り


 

正月には多くの人が初詣に出かけ、掌を合わせて願い事をします。そのような祈りは届くのでしょうか。そして叶えられるのでしょうか。それについて、インドのある聖者はこのように語りました。

「対等の者に物乞いをすれば、君は立場を下げ、相手が立場を上げる。しかし神に願う時、君は神に近づくのだ。神に願いなさい。それは物乞いとは違うのだ」

 

私たちが神(仏)に心を向けるとき、たとえ願い事であっても、自分がその神聖な存在に近づくように感じます。頭(こうべ)を垂れ、身を低くして謙虚な心になって願うならば、その思いはきっと届いて叶えられるように思います。

 

 

 

 

手のひらの宇宙

 

 

色づいた落ち葉の美しさに驚いて、こんなに小さなものにも宇宙と同じような美の秘密があるのだろうかと思います。

工場で働く人が、旋盤の上に宇宙があるということを語っていました。同じように、碁をする人は碁盤の上に、画家は小さなキャンバスの中に宇宙があるのだと言います。

万物が相似形で現れていることをフラクタルというのだそうですが、それゆえに無限大の宇宙を身近なところで発見できるのかもしれません。

 

 

To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour.

– William Blake: Auguries of Innocence –

 

一粒の砂の中に世界を
一輪の野の花に天国を見るには
きみの手のひらに無限を
ひとときのうちに永遠をつかめ

ウィリアム・ブレイク 「無心のまえぶれ」

 

 

ゆうがお

 

 

 

この花がひらくと、掌を合わせたくなります。
心が清められる思いがします。

 

 

弓のはなし


 

日本の弓は竹を主な材料にして作られていて、大変美しい形をしていますが、気候などの影響を受けやすく、取り扱いが難しいとされています。しかもそのまま握って引いても、矢は真っ直ぐには飛ばず、握り方にも工夫が必要です。

弓道という武道でも、的に当てればよいというのではなく、心のあり方が大切にされています。昔の中国の官吏の採用試験では、受審者に弓を引かせてその人物の人となりを調べたそうです。

弓聖と謳われた阿波研造は、弓を学ぶことは自分自身を学ぶことであると言いました。それは、自分を忘れることである、と。

 

 

犬と暮らす

 

 

様々な理由で保護された犬の里親になり、共に暮らすようになって20年になります。今は三代目の世話をしています。

生い立ちには複雑な事情もあり、初めのうちは手こずることが多いのですが、じきに慣れて我が家の一員として溶け込んでしまいます。

「世話をする」と書きましたが、実際にはこちらがたくさんの恩恵を受けています。彼らが存在するだけでその空間が豊かになり、注いだ愛情は何倍にもなって返ってくるからです。

 

 

メッセージ


 
 

私たちは溢れるようなたくさんの情報の中で生きていますが、本当に大切な情報を見つけることはなかなか難しいものです。

例えば、別々の人から同じ本を勧められること。ある映画のなかで語られた同じ言葉をその翌日に新聞の中に見つけること。

このようなシンクロニシティ(共時性)はとても解りやすいのですが、大切なものは周りの、あらゆる物事に隠れていると思います。賢者は子供からも学ぶと言われますが、大切なものを見出すための心得とはひとつに謙虚な姿勢にあるように思います。

そうすると、砂粒のなかに輝く宝石を見つけることができます。

 

 

教え学ぶ


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週に一度、10人ほどの教室で仏画の指導をしています。手本を渡しますが、自由に描いてもらっています。

仏画を通して仏教や宇宙のことを学ぶことを目的としていますが、感想を聞いてみると実際に筆をもって線を描くということで、自分のことや身近なことに気づくことが多いようです。

どの受講生もとても真剣に取り組んでいます。その姿に接することで、私も多くのことを学ばせていただいています。

 

 

それぞれの道

 

 

世界には実に様々な人が暮らしていますが、みなそれぞれの課題を持ってこの世に生まれてきているのだそうです。自分の居るべき場所に早くにたどり着いて本来の自己を見出す人は幸いです。

一所に留まらず、遥かな高みを目指して生涯を旅に費やす人もいるかもしれません。そのような人は一処不在の放浪者と誤解されるかもしれませんが、本当は巡礼の道を歩んでいるのです。そして、その人にはその人にしか担うことのできない役割というものがきっとあるにちがいありません。

 

道を歩むすべての人に光が照らされて、前へ進んでいけるように祈ります。

 

 

メッセンジャー

 

 

メッセンジャー。

覚えがないかもしれませんが、誰もが一度は出逢ったことのある注目すべき人物。ある人には、問題解決のヒントを、また別の人には注意を喚起するメッセージを。

ある時には物乞いのホームレスの姿で、また別の時には人目をひく派手な装いで。

 

さて、この方のメッセージはいかに…
テッサロニキの街中で。右手で引いているカートは、スピーカー。耳をつくほどの大音響で音楽を流しながら歩いていました。

 

 

聖山に祈る(6)


 

 

巡礼者の訪れる大きな修道院は設備も近代的に整えられています。連絡をする時は電子メールが使えますし、部屋には暖房の設備があり、トイレも水洗でお湯のシャワーもあります。それでも世俗社会から遠く離れ、聖域として静けさが守られています。

祈りは、どこにいてもできるのではないかと言われますが、よりふさわしい場所というものがあることは確かです。その場所には長い間に醸成された、祈るための磁場が作られているのではないかと思います。

 

 

聖山に祈る(5)

 

 

日本人は珍しいせいか、巡礼の人たちや修道士の方々からもよく声をかけられました。話を聞くと、巡礼者もいろいろな国から来ていることがわかります。

修道士もまた出身がさまざまです。ブルガリア、フランス、中国、そして日本。夕食後、就寝までのわずかな時間ですが、巡礼者は修道の方ともお茶を飲みながら歓談することができます。

修道士の方々には歓迎され、とてもよい時間を過ごすことができました。忘れられない巡礼の思い出です。

 

 

聖山に祈る(4)

 

 

祈り

修道院では毎日夜明け前に3時間、夕方に2時間祈りの儀式(奉神礼)が聖堂で行われています。

蝋燭とオイルランプの灯りによって金地のイコンが照らされる中で聖句と聖歌が交互に詠まれ、鈴の音のする香炉の煙によって堂内が清められます。無伴奏(アカペラ)で歌われる聖歌は中東の旋律に似て、とても神秘的に聞こえてきます。

聖堂は特別なエネルギーに包まれていて、宗教の枠を超えた荘厳な空気を体感することができました。

 

 

聖山に祈る(3)

 

 

朝夕の祈りの時間に続き、修道士と巡礼者はともにトラペザと呼ばれる食堂で食事をします。修道院の畑で収穫された野菜や果物を中心にワインなども添えられます。

食事の時間には係の修道士が聖句を朗読します。聖句は魂の栄養になります。

 

 

聖山に祈る(2)

 

 

聖母の園

伝説によると、聖母マリアはキプロスに住んでいた伝道者ラザロの「死ぬ前に一度会いたい」という求めに応じて、エルサレムから船出をしましたが、エーゲ海に出たところで嵐に遭遇し、漂着した所がアトス半島でした。

その時、<この地を御身の園そして楽園に。救いをもとめる者たちの港とされよ>と主イエスの声を聞き、上陸されたといいます。

ギリシア東北部にあるアトス半島は、共和国内にありながら正教会の修道院による自治が認められていて、この領域に「入国」するためには許可書が必要です。訪問することができるのは男性に限られ、舟に乗って「入山」します。そして許可された滞在期間に各々の巡礼のための時間を過ごします。

ここには深い静寂があるといわれます。祈りと観想によって神の光につつまれ、神と一つになろうとする静寂主義(ヘシュカスム)の伝統が今も息づいています。

 

 

聖山に祈る

 

 

巡礼のためにギリシャを訪ねました。聖山アトスをいただく半島には大小の修道院が点在しています。

巡礼者はそこに宿を借り、修道士とともに祈りの儀式に加わります。そしてその中で授かった恵みをそれぞれの国に持ち帰り、皆と分かち合うのです。

この聖域では1000年もの間変わることなく、この営みが続けられてきました。

 

 

節分

 

 

旧暦では新しい月の始まりを「節入り」と言うのだそうです。旧暦の1月1日が新暦の2月の初めになることから、この前後を節分、立春と呼ぶようになったということを聞きました。

節分には煎った豆をまいて鬼を追い払う行事が行われていますが、天地のあらゆるものの中に神を見出して大切に思う日本古来の信仰のあり方からすると、ひとつのものだけを排除する考え方は馴染まないように思います。

吉凶をともに受け容れて、新しい年を迎えることのできることに感謝をしたいと思います。

 

 

冬の日

 

 

庭の片隅で蝋梅(ろうばい)がひっそりと花を咲かせています。

そばに寄ると芳香を放っているのがわかりますが、特別に自己主張をすることもなく、身の程をよくわきまえていて、その慎ましく謙虚な佇まいはおおいに見習うところがあります。

 

 

 

だれでも高ぶる者は低くされ、
へりくだる者は高められる。

– ルカによる福音書18-14 –

 

 

奇跡を想う

 

 

悲しいことですが、この世界には平穏な日常を持たない場所や人々がたくさんあります。平穏な日常も小さな出来事がきっかけとなって、簡単に壊れたり失われたりするものです。

あたりまえのように過ぎてゆくささやかな幸せというのは、考えてみると一つひとつの奇跡の連続の上にあるように思えます。

有り難いという言葉、感謝という気持をいつも想いながら皆が日々を過ごしていくことができるようにと願っています。

 

 

夢の風景

 

 

この世界は、私たちの心のあり方がそのままに映し出されているといわれます。宇宙がどのように認識されるのかは、私たちの心が決定します。

願わくば、透明な心で、美しい世界を映していきたいものです。

世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りてなければ

– よみ人しらず(古今和歌集)-

 

 

 

出逢い

 

高校野球の100回目の記念大会が始まり、最初の試合に松井秀喜さんが始球式をしました。巡り合わせの不思議を感じたのは、その球を受けたのが松井さんの母校の捕手だったことです。

 

人生の中では様々な出逢いや巡り合わせがあります。たまたま目にしたり、耳で聞いた本の題名をある時に思い出してその本を読んでみたところ、その後の人生が変わるようなこともあります。

そして、もう少し早くに出会っていれば、と考えたり、あるいはもう少し早くに出会って読んでみたところで、多分理解できなかったかもしれない、などと思うのです。

おそらく、物事にはそれがおこるためにふさわしい時というものがあるのかもしれません。

 

 

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

– コヘレトの言葉 第3章1節 –

 

 

人生は美しいか

 

夜空の星を見渡すように銀河の中の太陽系・地球を俯瞰する….そこに苦しみながらも多くの魂が光に向かって懸命に生きる姿を想う。喜び・悲しみ・希望・絶望・・あらゆる色彩を含んだ美しさがその中にはあるように思います。

 

<生きることは苦である>という仏陀のことばは真実であると思いますが、それでもなお<人生は美しい>と思いながらこの苦しい道を歩んでいくことができれば幸いです。

 

 

 

Life is beauty, admire it.
– Mother Teresa –

 

 

 

闇と光

 

 

深い井戸の底から上を見ると、昼間でも空に輝く星を見ることができるのだそうです。微かな光を発見するためには、闇という環境が必要になるのでしょうか。

 

「人は闇の中に長くいると、小さな光の尊さに巡り会える」とある音楽家が語っていました。その小さな光とは人々が見過ごしてしまいがちな、日常にある小さな喜びや、当たり前の、しかしとても尊いことなのです。

 

 

祈る人

 

 

人里からはなれた場所で日々を祈りと黙想に身を捧げる・・・おそらくは、その献身と奉仕の一生を誰にも知られることなく終える人々がいます。

このような人々がそこに存在して、私たちの寄せる思いが彼らと共有されることに、おおきな安心を感じずにはいられません。

沈黙とは、また祈りとは本当には大変な力をもつ言葉ではないかと思うのです。そして世界の均衡は、そのような力で保たれているのかもしれません。

 

 

Silence is God’s first language.

– St John of the Cross (1542-1591) –