Archive for the ‘art’ Category

その人

4月 8th, 2018

 

 

 

 

ある禅の老師によると、畳の上を歩く音を聴くだけでその弟子の修行の進み具合がわかるといいます。日常の立居振舞いの中にその人のすべてが表れるのだそうです。とくに絵画や造形として表現されるものには、その作者の本質的なものが隠されることなく顕れ出てしまいます。

 

作品や表現の質を高めていくためには、技倆を研鑽するのと同時にそこに現れる品性・品格というものを磨かなければならないということでしょう。横山大観は創造について次のように述べています。

 

 

 

人間ができてはじめて絵ができる。
それには人物の養成ということが第一で、
まず人間をつくらなければなりません。
-「大観画談」-

 

 

 

一隅を照らす

11月 12th, 2017

 

 

 

 

絵画や彫刻の修復を長く続けてきましたが、一職人の送り出した仕事の数はそれほど多くはありませんし、それがどのような役に立っているのかもわかりません。中にはほとんど人の目に触れることもないようなものもあります。しかしながら、この世界はそのような人々の小さなともしびの支え合いで成り立っているのではないかと思います。

小さなともしびによってそれぞれの足元を照らす。その集まりで世界は照らされているのだと信じています。

 

 

 

 

 

 

美について

9月 12th, 2017

 

 

 

 

   道の道(い)う可(べ)きは、常の道に非ず。

   – 老子 第1章 –

 

 

宇宙はひとつのものであり、それを言葉によって表わそうとすると、言葉で表わされたものとそれ以外のものに分けられてしまいます。老子はまた次の第2章で、美という観念から醜というものが生じてくると述べています。それでは美とは何でしょうか。美しさの評価には、時代や場所によって移り変わる相対的な側面がありますが、究極的な、純粋な美というものはそのような評価とは関係なく存在するのではないかと思います。

 

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まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというものでもなく、(中略)またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというものでもない。

– プラトン「饗宴」 久保勉 訳 より-

 

 

 

そのような究極の美は、おそらく真実の体験と同じく自らの共感する力によって直感的に体験されるものではないでしょうか。そしてその美とは、あらゆる要素を含みながらただ純粋であり、いかなる情緒や理念をも超えて静かに偏在するものではないかと思います。

 

 

 

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 愛と美を分かつことはできない。
 愛がなければ何の美もなく、両者は不可分に結び合っている。

 – J・クリシュナムルティ –

 

 

 

 

祈りの詩集

8月 20th, 2017

 

 

 

 

愛する人、大切な国、美しい星々を想い、語る。繰り返される言葉は純化されて祈りに変わっていくのでしょうか。

水を沸騰させて蒸留し、それをまた熱して蒸留することを重ねていく、その際限のない繰り返しのなかで、人の精神は変容していくのです、とある錬金術師は語りました。

 

竹友藻風(1891 – 1954)は神学、英文学を学び、1913年(大正2年)、詩集「祈禱」を刊行しました。詩集には純化された言葉が美しく綴られています。

 

 

 

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   眠れる人のうへに、
   靜かなる祈禱の雨はふりそそぐ。
   わが部屋に、心のうへに、
   むせびつつ水はしたたる…

   うす⾭の空のかなたには、
   月光の海の底に、
   漾へる森、なびく樹立、
   靜寂の國…

   いかなれば外はしづかに晴れ渡り、
   いかなればわが部屋にのみ雨はふるらむ。

   - 竹友藻風「眠れる人のうへに」-

 

 

 

コラボレーション

5月 13th, 2017

 

 

 

 

展覧会に行くと、額縁や表装を観るのが愉しみです。絵のまわりに施された装飾によって作品の印象が大きく変わってきます。

本紙に対して表装というのは黒子のような役割のようにみえますが、額縁や表具の如何によって、その作品の完成度を左右する大切な存在です。

見方を変えてみると、絵画作品と額装(表具)と展覧会場の環境などあらゆる要素が協調し合ってひとつの芸術が生まれるように思います。