恵比寿天と大国天の絵を制作することになり、所縁の土地を訪ねました。恵比寿天は事代主神、大黒天は大国主神と考えられていますので、それぞれの神様をお祀りする神社に奉拝してきました。
出雲地方は記紀神話や国津神と縁が深く、伊勢地方の空気とはまた違った印象を受けますが、長い歴史を通して守られてきた聖域に入ると、身も心も清められ、新しく生まれ変わるような気持になります。
この度いただいた有り難きご縁に感謝の意を伝え、無事の完成を祈念させていただきました。
恵比寿天と大国天の絵を制作することになり、所縁の土地を訪ねました。恵比寿天は事代主神、大黒天は大国主神と考えられていますので、それぞれの神様をお祀りする神社に奉拝してきました。
出雲地方は記紀神話や国津神と縁が深く、伊勢地方の空気とはまた違った印象を受けますが、長い歴史を通して守られてきた聖域に入ると、身も心も清められ、新しく生まれ変わるような気持になります。
この度いただいた有り難きご縁に感謝の意を伝え、無事の完成を祈念させていただきました。
言い伝えによると、空海が唐より帰朝して密教の教えを広めるための根本道場を建立する際に、適地を探すために空に向かって放った三鈷杵が、紫雲に乗って降り立った場所が高野山であったとされていて、その三鈷杵が掛けられていたという松は植え替えられながら今でも残っています。
人体には気の流れる通り道(経絡)があり、そこには経穴というポイントがあることはよく知られています。同じように、地球の表面にはエネルギーの流れる道が縦横に走っていて、それらが交差したり、または地表から湧出する場所にはエネルギー・スポット(パワー・スポット)という、特にエネルギーの高い場所があります。
そのような場所には社寺などの宗教施設が古くから建てられていたり、人の多く集まる都市や観光地などがあったりします。これらの点は互いに連結し合い、バランスをとりながらこの惑星を維持しているといわれています。
高野山もその点の中のひとつに間違いはないでしょう。百以上もの塔頭が並ぶ山の上(正確には盆地)はひとつの街を形づくっているように見えます。参拝の人々が絶えることがありませんが、弘法大師の御廟のある奥の院は、密教の最高の聖地と言われるほどに何とも言えぬ静けさに包まれ、強い霊気を放っているように感じられます。
雪の山中をほとんど裸に近い格好で飛ぶように移動する行者の姿が、ヒマラヤなどをトレッキングする人たちに目撃されることがあります。彼は決して空を飛んだり水の上を歩いたりするために修行をしているのではありません。修行者は、それぞれの役割をもって行をされているのだそうですが、その恩恵によりこの世界の平和やエネルギーの秩序が保たれているともいいます。
呪法を自在に扱ったという役小角(えんのおづぬ)など、わが国にも山の中で暮らし、行に生きた人々が多数いたことは想像することができます。
都からほど近い比叡の山もそのような場所であったかもしれません。伽藍が整えられ、参拝の人や車が出入りする寺領にも連綿と続く行のための場所が点在します。そうした行は、国家の鎮護や安寧のためになされると聞きます。行場でもある常行堂と法華堂、そして宗祖最澄の廟のある浄土院は、比叡山の中でも特にその場所だけが別次元の清浄な空気をもった聖域のように感じられます。
一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり。
– 最澄「山家学生式(さんげがくしょうしき)」-
仏には桜の花をたてまつれ
わが後の世を人とぶらはば
桜の名所として知られる吉野山ですが、西行が歌に詠むまではほとんど人には知られていませんでした。吉野は元来、山岳修行の祖ともいわれる役行者が奈良時代に開いた山岳信仰の聖地です。
蔵王堂に祀られている蔵王権現は当初、桜材で刻まれ、それが吉野と桜を結ぶ縁になりました。諸国を遍歴した西行は、出家以前から吉野の美しい桜のことを知っていて、ここにも庵を結びます。
桜への讃歌を数多く残した西行は、華やかに開いて終には散り果てる花に美の極地を見出だし、同時に死ぬことに生の極点を見ようとしました。吉野では山中の庵に独居し、深い孤独のなかで自己を見つめ、人を真実愛し、そして自らの生をあきらかにしたのではないかと思います。
ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
皇室にゆかりのある高野御室と呼ばれる寺を訪ねました。高野山の中でも最も北に位置していて、境内の静けさや清らかさが印象に残りました。快慶晩年の作といわれる阿弥陀三尊像が安置されています。
住職の話によると、弘法大師空海は弥勒菩薩が降臨するまでの間、衆生の救済の誓願をたて、今でも奥の院に坐しておられるのだそうです。その話を聞き、空海と弥勒との深いつながりを知ることができました。
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虚空尽き、衆生尽き、
涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。
『性霊集補闕鈔』 巻第八 「高野山万燈会願文」
巡礼者の訪れる大きな修道院は設備も近代的に整えられています。連絡をする時は電子メールが使えますし、部屋には暖房の設備があり、トイレも水洗でお湯のシャワーもあります。それでも世俗社会から遠く離れ、聖域として静けさが守られています。
祈りは、どこにいてもできるのではないかと言われますが、よりふさわしい場所というものがあることは確かです。その場所には長い間に醸成された、祈るための磁場が作られているのではないかと思います。
日本人は珍しいせいか、巡礼の人たちや修道士の方々からもよく声をかけられました。話を聞くと、巡礼者もいろいろな国から来ていることがわかります。
修道士もまた出身がさまざまです。ブルガリア、フランス、中国、そして日本。夕食後、就寝までのわずかな時間ですが、巡礼者は修道の方ともお茶を飲みながら歓談することができます。
修道士の方々には歓迎され、とてもよい時間を過ごすことができました。忘れられない巡礼の思い出です。
祈り
修道院では毎日夜明け前に3時間、夕方に2時間祈りの儀式(奉神礼)が聖堂で行われています。
蝋燭とオイルランプの灯りによって金地のイコンが照らされる中で聖句と聖歌が交互に詠まれ、鈴の音のする香炉の煙によって堂内が清められます。無伴奏(アカペラ)で歌われる聖歌は中東の旋律に似て、とても神秘的に聞こえてきます。
聖堂は特別なエネルギーに包まれていて、宗教の枠を超えた荘厳な空気を体感することができました。
朝夕の祈りの時間に続き、修道士と巡礼者はともにトラペザと呼ばれる食堂で食事をします。修道院の畑で収穫された野菜や果物を中心にワインなども添えられます。
食事の時間には係の修道士が聖句を朗読します。聖句は魂の栄養になります。
聖母の園
伝説によると、聖母マリアはキプロスに住んでいた伝道者ラザロの「死ぬ前に一度会いたい」という求めに応じて、エルサレムから船出をしましたが、エーゲ海に出たところで嵐に遭遇し、漂着した所がアトス半島でした。
その時、<この地を御身の園そして楽園に。救いをもとめる者たちの港とされよ>と主イエスの声を聞き、上陸されたといいます。
ギリシア東北部にあるアトス半島は、共和国内にありながら正教会の修道院による自治が認められていて、この領域に「入国」するためには許可書が必要です。訪問することができるのは男性に限られ、舟に乗って「入山」します。そして許可された滞在期間に各々の巡礼のための時間を過ごします。
ここには深い静寂があるといわれます。祈りと観想によって神の光につつまれ、神と一つになろうとする静寂主義(ヘシュカスム)の伝統が今も息づいています。
巡礼のためにギリシャを訪ねました。聖山アトスをいただく半島には大小の修道院が点在しています。
巡礼者はそこに宿を借り、修道士とともに祈りの儀式に加わります。そしてその中で授かった恵みをそれぞれの国に持ち帰り、皆と分かち合うのです。
この聖域では1000年もの間変わることなく、この営みが続けられてきました。