聖なる丘

 

 

 

長崎市街を見おろす小高い丘の上に西坂公園があります。キリスト教の禁教令の敷かれていたおよそ400年ほど昔、この場所でキリスト教を信仰する二十人の日本人と、外国の六人の宣教師が殉教しました。

二十六人は京都と大阪で捕えられ、ひと月かけて長崎までの道を歩き、十字架にかけられたのです。二十六人はその後、1862年にピオ9世により列聖されました。

 
 


 

列聖から100年の後、1962年にこの地に記念館と記念碑が建設されました。公園の敷石の一枚に、殉教の日付が刻まれています。4年半の歳月を費やしてこの像を制作した舟越保武は2002年の同じ日にその生涯を終えました。
 

 

 

人若し我に從はんと欲せば 己を捨て十字架をとりて我に從ふべし マルコ第八章

 

 

 

平らかに生きる


 

 

 

「弓と禅」という書物がありますが、その中で弓の師範は弟子に「悪い射を嘆いてはいけない。それに加えて良い射にも喜ばないようにして、平静な気持ちでいられるようにしなさい」と教えていました。

そして、「このことは絶えず心掛けなければなりません。それがどれほど大切かはあなたには想像がつかないでしょう」とも語っています。

喜びや悲しみがあってこその人生であるという見方もありますが、先に行われたオリンピックの競技の話題に接して、この言葉をあらためて大切にしていきたいと思い直したところです。

 
 


すべてのものは動き、変化している。
成功にも喜ばないし、失敗にも悲しまない。

荘子(第17 秋水編)

 
 
 
 

 

 

 

人生の道行きは旅にたとえられることがあります。しかし、行路の地図はなく、現在地も自分がどこにいるのかわからないことが多いのが現実です。

確かなことは、振り返ったときに自分が歩んできた道が見えることだけです。進んで行く道の足元を照らし、方向を定めるものがあるとすれば、自分を信じることと、謙虚な姿勢で自然の導きに委ねていくことでしょうか。それから、何らかの信仰のある人は恩寵を受けとることができるかもしれません。

道を行く人びとが、そのような宝を大切にして足を一歩ずつ前へ進めていけるように願っています。

 

智慧の完成者はこの道を示すだけである。
おのおのが自分の足でその道を行かなければならない。

「ウダーナヴァルガ」第12章

 

 

 

 

サンクチュアリ

 

 

 

恵比寿天と大国天の絵を制作することになり、所縁の土地を訪ねました。恵比寿天は事代主神、大黒天は大国主神と考えられていますので、それぞれの神様をお祀りする神社に奉拝してきました。

出雲地方は記紀神話や国津神と縁が深く、伊勢地方の空気とはまた違った印象を受けますが、長い歴史を通して守られてきた聖域に入ると、身も心も清められ、新しく生まれ変わるような気持になります。

この度いただいた有り難きご縁に感謝の意を伝え、無事の完成を祈念させていただきました。

 

 

 

新しい年に

 

 

 

家族の健康と幸せを祈る、国家の安寧を祈る、世界の平和を祈る。
多くの人びとが日々、より良い世界を願っています。

その願いは目には見えないかもしれませんが、この惑星を優しく包んでいるのではないかと思っています。

祈りとは、人間が表現しうる最高・最上の形ではないでしょうか。何事にもそのような心を忘れないように過ごしていきたいと思います。

 

創造的エネルギーに触れながら自然の中を一歩一歩歩く時、
全身が深い感謝の気持ちに包まれる。

その感謝が結晶化したものが、祈り。

本当の祈りは、個人の願望でも要求を訴えるものでもなく、
ただ感謝の中で輝く宝石のようなもの。

-森井 啓二 「祈りの本質」-

 

 

 

自然とともに

 

 

 

この頃は郊外でも都市部と同じような人工的な環境となって、自然を身近に感じることが難しくなってきました。人は自然の一部であるということが忘れられてしまいそうです。

大地を耕す人、海や山からの恵みを受ける人、厳しい環境のなかに身をおいて生きる人、自然を畏れ、自分の弱さをよく知る人びとに共通する資質はとても謙虚な姿勢です。そのような人々の生きた縄文時代は、争いのない平和な社会が一万年も続いたといわれています。

平和な世界は、一人ひとりの心から、自然とともに生きる姿勢から生まれるのではないかと思います。

 

 

 

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