信仰に生きる

 

 

何かを信じてその教えに従って毎日を過ごし、人生を送ることは簡単なことではありません。さまざまな出来事に出遭うたびに、自分自身と向き合い、その信仰を問われるからです。

 

2006年10月2日、合衆国ペンシルベニア州の小さな村の小学校で女子生徒10名が一人の男によって監禁され、銃で撃たれるという事件がありました。男はその場で自ら命を断ちましたが、その時に生徒達の親族のとった行動は世界中に驚きをもって報道されました。

被害に遭ったのはアーミッシュ ( Amish ) と呼ばれる人たちで、彼らは犯人の家族を慰め、赦しを与えただけではなく、男の葬儀にも参列して哀悼の意を表し、その妻を招いて食事を共にしました。

アーミッシュの人々はひとつの信仰を共にした共同体のなかで自給自足の生活をしています。子供たちは、生まれた時からそうした信仰に基づいた教育を受けて育てられます。そこでは愛と自己犠牲・献身・相互扶助などが最も価値のあるものと考えられています。

 
 

信仰に従って生きるということは、ある意味では大変険しく厳しい道のように見えますが、同時にその人の魂を高め、人生を美しく崇高な生き方に変えることもできるのです。
 

 

 

 

真実の人

 

 

 
これまでのささやかな経験から思うことは、本当に技を極めている人や、徳が備わっていて立派な人というのは、その多くが世間的に目立つわけでもなく、ごく普通に暮らして仕事をしている人が多いということです。そしてその人は決して自分を主張するようなことがありません。

このような人びとに気づくことのできることは幸せです。その人から多くのことを学び、吸収することができるからです。

人は見かけでも地位でもなく、その人の話すことばや行いに本質が表れるのではないかと思っています。

 

 

 

最大の人は世から知られずに過ぎる

– スワミ・ヴィヴェーカナンダ –

 

 

 

魂の問題

 

 

幼い頃、人は死んだらどこへ行くのだろうかと考えて、なかなか眠れないことがありました。昨今では心肺停止状態になって、意識が死を体験する「臨死体験」の事例も増えて、人が死後にたどる道筋が少しわかるようになってきています。

自然界を見ていると、万物は生成と消滅を繰り返して循環していることがわかりますが、死というものはその中の一つの通過点のようにも思えてきます。

日々の生活のなかでは、死について考えることはそれほど多くないと思いますが、死を明らかにすることで生まれてきた意味や人生の目的が明らかになり、よりよい人生を送ることができるのではないかと考えています。

 

 

 

 

巡礼という旅


 

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり

– 松尾芭蕉「奥の細道」-

 

 

「奥の細道」については様々な見方がありますが、万葉集や古今集などの古典に詠まれた歌枕を訪ねる旅であり、或いは芭蕉の尊敬し慕う西行の足跡を辿る巡礼の旅であったともいわれます。その西行も空海を慕い、四国の巡礼をしたり、空海の修行地に庵を結んだりしました。奥州へはその生涯に二度足を運んでいます。

巡礼は、聖地を巡る旅に限定されず、この惑星が季節を変えながら太陽を巡ることも、私たちが生死を繰り返しながら続ける旅もそのなかに含まれるのではないでしょうか。すべての旅は巡礼と見ることもできます。

そしてその巡礼の途上では、一つだけ確かなことがあります。それは必要なものすべてが与えられるということです。不条理なことに出逢い、行く手を塞がれているかのようにみえることも、それが天からの恩寵と受けとめて前に進んでいくことができるのではないかと思うのです。

 

 

 

 

新しい夜明け

 

 

 

It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
For me
And I’m feeling good
-Feeling good / Anthony Newley and Leslie Bricusse-

 

 

インドの古くからの哲学によると、日の出や日の入り前後の時間帯は、一日のなかで最も神聖な時間とされていて、瞑想や創造活動をするのによいのだそうです。

黎明の青い薄明かりから次第に空が明るくなり、太陽が昇ると、思わず掌を合わせたくなります。

誰もが新しい夜明け、新しい一日、新しい人生を希望をもって生きていかれるように願っています。

 

 

起きて見てください
この美しい夜明け
希望をもたらす
新しい夜明け

Acorde para ver
Este lindo alvorecer
Trazendo esperança
de un novo amanhecer
Novo Amanhecer / Emilio Dias-

 

 

 

 

聖なる丘

 

 

 

長崎市街を見おろす小高い丘の上に西坂公園があります。キリスト教の禁教令の敷かれていたおよそ400年ほど昔、この場所でキリスト教を信仰する二十人の日本人と、外国の六人の宣教師が殉教しました。

二十六人は京都と大阪で捕えられ、ひと月かけて長崎までの道を歩き、十字架にかけられたのです。二十六人はその後、1862年にピオ9世により列聖されました。

 
 


 

列聖から100年の後、1962年にこの地に記念館と記念碑が建設されました。公園の敷石の一枚に、殉教の日付が刻まれています。4年半の歳月を費やしてこの像を制作した舟越保武は2002年の同じ日にその生涯を終えました。
 

 

 

人若し我に從はんと欲せば 己を捨て十字架をとりて我に從ふべし マルコ第八章

 

 

 

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