生命の言葉

 

 

普段何気なく使っている言葉ですが、言葉は思考や感情と深く結びついているので、たとえば「ありがとう」と声に出して言うと、それを聞く人も話す本人もありがたいという感謝の気持ちが胸に広がっていきます。

ですから、人を傷つけるような言葉を話せば、同時に自分も傷ついてしまうのです。そして一度放たれた言葉は取り消すことができないので、言葉の扱いには本当に気をつけなければならないと思います。

わが国には言霊(ことだま)といって、言葉には霊力が宿っていると考えられてきました。

 

初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
-ヨハネによる福音書第1章1節-

 

 

 

 

 

物心一如

 

 

 

感性の豊かな人の多くはすべてのものに命があり、心があると思っています。それは経験からそのように確信をしているのです。動植物はもちろんのこと、石や岩、鉱物などにも固有のエネルギーが備わっていることを感じています。

機械や道具類も丁寧に手入れをして大切に扱っていると、よい仕事をしてくれることも経験からわかります。それでは物にも意識があるのでしょうか。それについては次のような話を聞いたことがあります。

 

砂漠のなかを車で移動していて燃料が尽きてしまい、行き交う車もない場所で困り果てていたとき、運転手は車に向かって「お願いだから次の街まで走ってください」と声をかけたところ、燃料が空にもかかわらず車のエンジンがかかり、街まで動いたという話です。

 

昨今、AI(人工知脳)には意識があるのかどうかという話題に接し、そのようなことを思い出しました。

 

 

 

「心」と「物」と二つに分けてはならない。
-村上華岳-

 

 

 

本と人と

 

 

 

この頃は音楽や書物は電子データで聴いたり読んだりすることが多くなりました。ひと昔前は、音楽はレコード盤を回して針を落とし、溝に付いた傷の雑音とともに聴いたものです。

書物も、本棚に並んだ背表紙を眺め、本を取り出して頁を開いて文字を読みました。手に取ったときの重さや紙の硬さ、柔らかさ、匂いまでがその本の一部分になっていて、本を読むということは、そのすべてを味わうことだったように思います。

もう少し身体全体の感覚を使って、多少の不便さが残っても人生を豊かにしてくれるものを大切にしてもよいのではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

冬雪さえて


 

 

仕事場にしている民家は丹後地方の標高の高い谷筋にあり、冬になると平地よりも雪がたくさん積もります。10年に一度くらいは大雪になって家のまわりは雪の山に覆われてしまいます。

ここに移住してきた頃はまだ若かったので、風呂や暖房には薪を使い、トイレの肥は畑に撒き、その畑もすべて手作業で耕していました。
今では風呂も暖房も灯油になり楽になりましたが、冬の除雪作業には苦労しています。

それでも、雪の山里はとても静かでなかなかよいものです。

 

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり(道元)

 

 

 

心で

 

 

 

欧州に住むクラシック音楽の世界に詳しい方の話によると、本当に素晴らしい演奏をする音楽家は、有名な音楽家にも付かず、コンクールなどの賞にも縁のない、無名な人が多いのだそうです。私たちが素晴らしいと思っている演奏家は、実はそのように思い込まされているのです。

おそらく、もっとも高い境地を実現した人々とは、伝記に残っている偉い僧侶や本をたくさん残した大学者ではなく、一人で山へ籠って、誰にも知られることなく生きた無名の人びとなのでしょう。
世の中の風評に惑わされることなく、本当のものを見定める力量をもつことはとても大切である、というお話です。
 

 

ものごとは心で見なくてはよく見えない。
ほんとうにたいせつなことは、目に見えない。

-サン=テグジュペリ『星の王子さま』-

 

 

 

古典に聴く

 

 

 

 

クラヴィコード。金属の弦を叩いて演奏する鍵盤楽器です。
耳で聞くというよりも心で傾聴するような微かな音色で、天上からのやわらかな光に包まれるように感じます。

音量が抑制されているのは、祈りのために使われていたからで、この楽器の造られた14世紀には修道士が自ら製作し、演奏していたのだそうです。

先日京都のギャラリーで演奏会があり、中世の修道院の空間にいるような静謐な時間を体験することができました。

 

 

 

 

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