思いはとどく


 

私たちは戦争や大きな災害で犠牲になった人々の慰霊のために、特定の日時に黙祷を捧げています。そのような祈りの力は目には見えませんが、世界の隅々まで届いてはたらいていることを信じています。

思いの持つ力について、19世紀のインドに生きた聖ラーマクリシュナは次のような言葉を残しています。

 

思想の持つ力を理解しているものは数少ない。もしある人が洞穴に入って閉じこもり、そして真に偉大な思想を考えだした後、そこで死んだとする。しかし、その思想は洞穴の壁から滲み出し、空間を振動し、遂には全人類に充満するだろう。思想の力とはこういうものだ。

– 「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」 より-

 

 

 

力をあわせて


 

空気のように当たり前にあったものがなくなったときに、その存在の大切さがわかるように、この一年の間に私たちは多くの大切な物事に気づかされました。自由に地球上を行き来できた日々が夢のようです。

私たちは今、等しく一つの試練に向かい合っています。みなが地球という家に住む一つの家族、兄弟姉妹として力を合わせてこの難題を乗り越えていくことができるように祈ります。

 

 

 

 

真実をさがす


 

昔から農業に携わる人は、田畑を起こし種をまく時節を判断するために、山川草木、自然の姿にあらわれる徴(しるし)を目安にしてきました。祖先から言い伝えられてきたことが、自身の体験によって確かなものであることを知っているからです。

新しいことを学んだり発見したりしようとする場合はどうなのでしょうか。その昔、天動説が定説であった頃、動いているのは地球のほうであると口にすることは大変な勇気と覚悟が必要だった時代がありました。みながそう言うからといって、それが真実であるとは限らないのです。

真実を見出すためには、透明な心と冷静な理性、そして最終的には直観が大切なのではないかと思います。

 

昨今のニュース・メディアの流す報道に接して思うこと。

大観のことば


 

様々な方法で自己を表現する人は、いつも自分自身を顧みなければならないと思います。

 

富士の名画というものは、昔からあまりない。それは、形ばかり写すからだ。富士を描くということは、富士に写る自分の心を描くということだ。心とは、畢竟、人格にほかならぬ。それはまた、気品であり、気迫である。

富士を描くということは、つまり、己を描くということである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには、理想をもって描かなければならぬ。私の富士も、けっして名画とは思わぬが、しかし、描く限り、全身全霊を打ち込んで描いている。

富士の美しさは、季節も時間も選ばぬ。春夏秋冬、朝晩、富士は、その時々で姿を変えるが、いついかなる時でも、美しい。それは、無窮の姿だからだ。私の芸術も、その、無窮を追う。

-横山大観「私の富士観」 朝日新聞・昭和29年5月6日より-

 

 

 

 

祈りの声


 
 

昔のことになりますが、3年ほどかけて小さなお堂の中に絵を描く仕事をしたことがあります。扉は閉めていましたので夏は暑く、冬は防火のため暖房器具が使えずにとても寒かったことを覚えています。

中で仕事をしていると、足音や賽銭を投げ入れる音でお参りに来る人がわかるのですが、中には願い事や祈りを声に出す人もいます。

 

祈る人の声は、願い事や御礼、感謝の気持ちなどさまざまですが、みな真剣です。そのような祈りの声に助けられて、無事に仕事を完成することができました。

 

 

 

 

職人という生き方


 

職人という名から連想するのは「プロフェッショナル」という言葉です。仕事には自信と誇りを持ちながら自分を表に出さず、分をわきまえていて謙虚な姿勢をいつもたたえている人。

後世に残るような大きな仕事をする望みを持つこともあるかもしれませんが、目の前の仕事を誠実に取り組むという生き方。これは職人に限らずどのような職業の人にもあてはまりそうですね。

本当に素晴らしい人は、概して野にあって隠れ、学び、夢み、伝統をふまえ、しかも自分でないとできないこと、また自分ができるわずかなことを、本当の高く深い美しさを真剣に追求している人たちだと思っています。

– 「一茎有情」志村ふくみ・宇佐見英治共著より –

 

 

 

 

1 2 3 4 5 6 7 8 13