横山大観の制作にまつわるエピソードの中で特に印象に残る話があります。
第一回帝展に出品された六曲一双の龍を描いた屏風を制作する際に、屏風の一折を1枚と数えて、完成までに90枚を書き直したという話です。大観はこの展覧会には特別な思いを持っていたのでしょうか、一切の妥協を許さなかった姿勢が伺えます。
偉大な先人に倣い、作品にはどのような小さな仕事でも常に全身全霊で心血を注ぐという心構えで臨みたいと思います。
横山大観の制作にまつわるエピソードの中で特に印象に残る話があります。
第一回帝展に出品された六曲一双の龍を描いた屏風を制作する際に、屏風の一折を1枚と数えて、完成までに90枚を書き直したという話です。大観はこの展覧会には特別な思いを持っていたのでしょうか、一切の妥協を許さなかった姿勢が伺えます。
偉大な先人に倣い、作品にはどのような小さな仕事でも常に全身全霊で心血を注ぐという心構えで臨みたいと思います。
正月には多くの人が初詣に出かけ、掌を合わせて願い事をします。そのような祈りは届くのでしょうか。そして叶えられるのでしょうか。それについて、インドのある聖者はこのように語りました。
「対等の者に物乞いをすれば、君は立場を下げ、相手が立場を上げる。しかし神に願う時、君は神に近づくのだ。神に願いなさい。それは物乞いとは違うのだ」
私たちが神(仏)に心を向けるとき、たとえ願い事であっても、自分がその神聖な存在に近づくように感じます。頭(こうべ)を垂れ、身を低くして謙虚な心になって願うならば、その思いはきっと届いて叶えられるように思います。
色づいた落ち葉の美しさに驚いて、こんなに小さなものにも宇宙と同じような美の秘密があるのだろうかと思います。
工場で働く人が、旋盤の上に宇宙があるということを語っていました。同じように、碁をする人は碁盤の上に、画家は小さなキャンバスの中に宇宙があるのだと言います。
万物が相似形で現れていることをフラクタルというのだそうですが、それゆえに無限大の宇宙を身近なところで発見できるのかもしれません。
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To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour.
– William Blake: Auguries of Innocence –
一粒の砂の中に世界を
一輪の野の花に天国を見るには
きみの手のひらに無限を
ひとときのうちに永遠をつかめ
ウィリアム・ブレイク 「無心のまえぶれ」
この花がひらくと、掌を合わせたくなります。
心が清められる思いがします。
日本の弓は竹を主な材料にして作られていて、大変美しい形をしていますが、気候などの影響を受けやすく、取り扱いが難しいとされています。しかもそのまま握って引いても、矢は真っ直ぐには飛ばず、握り方にも工夫が必要です。
弓道という武道でも、的に当てればよいというのではなく、心のあり方が大切にされています。昔の中国の官吏の採用試験では、受審者に弓を引かせてその人物の人となりを調べたそうです。
弓聖と謳われた阿波研造は、弓を学ぶことは自分自身を学ぶことであると言いました。それは、自分を忘れることである、と。
数学の専門家によると、数学の公理などは人間が考え出したものではなく、すべて隠されていたものを「発見」したものなのだそうです。
芸術家が想像力や霊感によって宇宙の中に暗黙の秩序を見出し、それを音や形にすることとよく似ています。優れた数学者が共通して持っているものは、謙虚さと特別の美意識、そして精神性です。
数学と芸術はそれほど離れてはいないかもしれません。数学者はみな、数学は圧倒的に美しいと言い切っています。
数学者は詩人でなくてはなりません
-ソーニャ・コワレフスカヤ-