高野山

 

 

言い伝えによると、空海が唐より帰朝して密教の教えを広めるための根本道場を建立する際に、適地を探すために空に向かって放った三鈷杵が、紫雲に乗って降り立った場所が高野山であったとされていて、その三鈷杵が掛けられていたという松は植え替えられながら今でも残っています。

人体には気の流れる通り道(経絡)があり、そこには経穴というポイントがあることはよく知られています。同じように、地球の表面にはエネルギーの流れる道が縦横に走っていて、それらが交差したり、または地表から湧出する場所にはエネルギー・スポット(パワー・スポット)という、特にエネルギーの高い場所があります。

そのような場所には社寺などの宗教施設が古くから建てられていたり、人の多く集まる都市や観光地などがあったりします。これらの点は互いに連結し合い、バランスをとりながらこの惑星を維持しているといわれています。

 

高野山もその点の中のひとつに間違いはないでしょう。百以上もの塔頭が並ぶ山の上(正確には盆地)はひとつの街を形づくっているように見えます。参拝の人々が絶えることがありませんが、弘法大師の御廟のある奥の院は、密教の最高の聖地と言われるほどに何とも言えぬ静けさに包まれ、強い霊気を放っているように感じられます。

 

 

近くして見難きは我が心、細にして空に遍きは我が仏なり。
*
あまりに近いために
かえって見えにくいものは自分の心であり、
微細で目にはみえないけれども、宇宙に遍満しているのは
自分の心中の仏である。
– 弘法大師空海「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」巻下「第九極無自性住心」 –

 

 

 

希望という灯

 

 

 

意のままに姿を変えて人々の前に現れて救済をするといわれる観世音菩薩。そのような人物と実際に出逢い、助けられたり、慰めや勇気を与えられたりした人々の話を集めています。

何度も繰り返して読んで、その内容を細かなところまで覚えているのですが、その物語を読むたびに新たに感動するのはどうしてなのかを考えました。

おそらく、私たちがいつも誰かに見守られていて、本当に困ったときには援助の手が差しのべられる、という希望をもつことができるからなのかもしれません。

 

 

 

比叡山

 

 

雪の山中をほとんど裸に近い格好で飛ぶように移動する行者の姿が、ヒマラヤなどをトレッキングする人たちに目撃されることがあります。彼は決して空を飛んだり水の上を歩いたりするために修行をしているのではありません。修行者は、それぞれの役割をもって行をされているのだそうですが、その恩恵によりこの世界の平和やエネルギーの秩序が保たれているともいいます。

呪法を自在に扱ったという役小角(えんのおづぬ)など、わが国にも山の中で暮らし、行に生きた人々が多数いたことは想像することができます。

都からほど近い比叡の山もそのような場所であったかもしれません。伽藍が整えられ、参拝の人や車が出入りする寺領にも連綿と続く行のための場所が点在します。そうした行は、国家の鎮護や安寧のためになされると聞きます。行場でもある常行堂と法華堂、そして宗祖最澄の廟のある浄土院は、比叡山の中でも特にその場所だけが別次元の清浄な空気をもった聖域のように感じられます。

 

 

 

一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり。
–  最澄「山家学生式(さんげがくしょうしき)」-

 

 

 

緑かがやく

 

 

 

緑の美しい季節になりました。春に生まれた淡い色の若葉が成長し、山々は燃えるような緑に覆われています。

この色彩には人の心身を癒す力が備わっているのでしょうか。身体のなかを風が通り抜けて爽やかな気持になります。

太陽と水と風と樹々に感謝。

 

悲しめるもののために
みどりかがやく
くるしみ生きむとするもののために
ああ みどりは輝く
-室生犀星「五月」-

 

 

 

西行と桜


 

 

仏には桜の花をたてまつれ
わが後の世を人とぶらはば

 

桜の名所として知られる吉野山ですが、西行が歌に詠むまではほとんど人には知られていませんでした。吉野は元来、山岳修行の祖ともいわれる役行者が奈良時代に開いた山岳信仰の聖地です。

蔵王堂に祀られている蔵王権現は当初、桜材で刻まれ、それが吉野と桜を結ぶ縁になりました。諸国を遍歴した西行は、出家以前から吉野の美しい桜のことを知っていて、ここにも庵を結びます。

桜への讃歌を数多く残した西行は、華やかに開いて終には散り果てる花に美の極地を見出だし、同時に死ぬことに生の極点を見ようとしました。吉野では山中の庵に独居し、深い孤独のなかで自己を見つめ、人を真実愛し、そして自らの生をあきらかにしたのではないかと思います。

 

ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃

 

 

 

 

これから

 

 

 

大きな夢を生涯追い求めて生きることのできる人は幸いです。一方で、足るを知り身のまわりのわずかなものに幸せを見いだすことができる生き方も素晴らしく見えます。

人生をどのように収束させるのか、残された時間をどのように使うのか、心を鎮めて考える日々です。自分を忘れて何かを残すことができれば、それが理想的なのですが。

 

 

 

欲なければ一切足り
求むる有れば萬事窮す
-良寛-

 

 

 

 

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