至高の美


 

道の道(い)う可(べ)きは、常の道に非ず。

– 老子 第1章 –

 

 

宇宙はひとつのものであり、それを言葉によって表わそうとすると、言葉で表わされたものとそれ以外のものに分けられてしまいます。老子はまた次の第2章で、美という観念から醜というものが生じてくると述べています。それでは美とは何でしょうか。美しさの評価には、時代や場所によって移り変わる相対的な側面がありますが、究極的な、純粋な美というものはそのような評価とは関係なく存在するのではないかと思います。

 

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まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというものでもなく、(中略)またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというものでもない。

– プラトン「饗宴」 久保勉 訳 より-

 

 

 

そのような究極の美は、おそらく真実の体験と同じく自らの共感する力によって直感的に体験されるものではないでしょうか。そしてその美とは、あらゆる要素を含みながらただ純粋であり、いかなる情緒や理念をも超えて静かに偏在するものではないかと思います。

 

 

 

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愛と美を分かつことはできない。
愛がなければ何の美もなく、両者は不可分に結び合っている。

– J・クリシュナムルティ –

 

 

祈りの詩集

 

愛する人、大切な国、美しい星々を想い、語る。繰り返される言葉は純化されて祈りに変わっていくのでしょうか。

水を沸騰させて蒸留し、それをまた熱して蒸留することを重ねていく、その際限のない繰り返しのなかで、人の精神は変容していくのです、とある錬金術師は語りました。

 

竹友藻風(1891 – 1954)は神学、英文学を学び、1913年(大正2年)、詩集「祈禱」を刊行しました。詩集には純化された言葉が美しく綴られています。

 

 

 

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眠れる人のうへに、
靜かなる祈禱の雨はふりそそぐ。
わが部屋に、心のうへに、
むせびつつ水はしたたる…
うす⾭の空のかなたには、
月光の海の底に、
漾へる森、なびく樹立、
靜寂の國…
いかなれば外はしづかに晴れ渡り、
いかなればわが部屋にのみ雨はふるらむ。
– 竹友藻風「眠れる人のうへに」-

 

 

よあけ

 

空が少しずつ明るくなりはじめ、新しい一日の生まれる時。静かな、澄んだ空気のなかに心を合わせると、魂が空全体に拡がっていくようです。

今日一日の無事と世界の平和を祈ります。

 

やさしさ
謙遜な心
すなおな信仰
それは浅くても尊い

– 八木重吉 –

 

 

透明になる

 

古い絵を復元するために模写をすることがあります。描かれた当初の姿を再現するのです。絵具が剥がれ落ちて見えなくなっているところは、集めた資料から類推したり、想像力を使って描きます。

模写をするときに大切なことは、自分の個性を表に出さないようにすることでしょうか。できる限り作者に近づいて、作者になりきって描くことができれば、よい仕事ができます。

 

自分を捨て、無色透明になること。その昔、仏画を描いた僧侶やイコンをひたすら模写し続けた修道士は、描くことで自我を消していく修行をしていたのではないかと思います。

 

 

平和な心で

 

この頃、大きな街を歩いて気になることは、公園などに置かれているベンチに仕切りや細工がされていて、そこで横になったり長い時間座ったりしにくくなっているのではないかということです。

先日、広島を訪ねました。街は緑がゆたかで休むことのできる椅子やベンチがいくつも設置されていましたが、そのような細工がされていないのに気づき、それが自然であたりまえのことであるのに、その優しさに心が温まりました。

 

平和な社会をつくるというのは、一人ひとりの中に、人を思いやるあたたかな心を持つことが大切なのではないかと改めて思うのです。

 

 

心をこめて

 

書道家が渾身の気力を込めて書いた作品の文字を電子顕微鏡で調べると、墨の粒子が同じ方向に整列しているのがわかるそうです。制作時の心のあり方が作品に表れるのでしょうか。

日々の生活の中でも、どのような心で過ごしているか、その延長線上に仕事の結果があるのではないかと思います。

 

「製作は密室の祈り」と書いた村上華岳は、同じ著書の中で「神を相手にせよ、汝のすべての業を 神の前に捧げよ」と語っています。
大変畏れ多いことですが、人生の残りの時間をこのような心で…と思っています。