
自分をわすれ
無心になって
筆をとること
そのすべての業を
宇宙の父と母に
捧げます

自分をわすれ
無心になって
筆をとること
そのすべての業を
宇宙の父と母に
捧げます

深い井戸の底から上を見ると、昼間でも空に輝く星を見ることができるのだそうです。微かな光を発見するためには、闇という環境が必要になるのでしょうか。
「人は闇の中に長くいると、小さな光の尊さに巡り会える」とある音楽家が語っていました。その小さな光とは人々が見過ごしてしまいがちな、日常にある小さな喜びや、当たり前の、しかしとても尊いことなのです。

絵画や彫刻の修復の仕事に長く携わってきましたが、一職人の送り出した仕事の数はそれほど多くはありませんし、それがどのような役に立っているのかもわかりません。中にはほとんど人の目に触れることもないようなものもあります。
しかしながら、この世界はそのような人々の小さな光の支え合いで成り立っているのではないかと思います。
小さなともしびによってそれぞれの足元を照らす。その集まりで世界は照らされているのだと信じています。

Happiness only real when shared
– Christopher Johnson McCandless –
家族や親しい人たちとの間で普通にされているように、私たちみなが生きるための糧を分かち合うことができたなら、どんなに素晴らしいことでしょう。
分かち合うということは、持ち分が減るのではなく、逆によりゆたかになることなのです。
1992年アラスカの荒野でひとり亡くなったクリス・マッカンドレスの書き残した言葉。

人里からはなれた場所で日々を祈りと黙想に身を捧げる・・・おそらくは、その献身と奉仕の一生を誰にも知られることなく終える人々がいます。
このような人々がそこに存在して、私たちの寄せる思いが彼らと共有されることに、おおきな安心を感じずにはいられません。
沈黙とは、また祈りとは本当には大変な力をもつ言葉ではないかと思うのです。そして世界の均衡は、そのような力で保たれているのかもしれません。
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Silence is God’s first language.
– St John of the Cross (1542-1591) –

道の道(い)う可(べ)きは、常の道に非ず。
– 老子 第1章 –
宇宙はひとつのものであり、それを言葉によって表わそうとすると、言葉で表わされたものとそれ以外のものに分けられてしまいます。老子はまた次の第2章で、美という観念から醜というものが生じてくると述べています。それでは美とは何でしょうか。美しさの評価には、時代や場所によって移り変わる相対的な側面がありますが、究極的な、純粋な美というものはそのような評価とは関係なく存在するのではないかと思います。
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まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというものでもなく、(中略)またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというものでもない。
– プラトン「饗宴」 久保勉 訳 より-
そのような究極の美は、おそらく真実の体験と同じく自らの共感する力によって直感的に体験されるものではないでしょうか。そしてその美とは、あらゆる要素を含みながらただ純粋であり、いかなる情緒や理念をも超えて静かに偏在するものではないかと思います。
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愛と美を分かつことはできない。
愛がなければ何の美もなく、両者は不可分に結び合っている。
– J・クリシュナムルティ –